討ち入りそば

忠臣蔵はオワコン?

近年ではすっかり下火になった印象ではありますが、12月に入り、年末のソワソワした空気が漂うころになると新聞のテレビ欄には「赤穂浪士」や「忠臣蔵」という文字をちらほら見かけ、年末年始には時代劇が数日に渡って放送されていた頃がありました。
元々は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として江戸時代の庶民に親しまれ、現在でも上演されている作品ですが、舞台を観る習慣のない人にとっては年末年始の特番でやる時代劇というイメージが強いですね。

しかし、通常の時代劇のテレビ放送すら少なくなっている現代では、「忠臣蔵オワコン説(*)」などという形で話題に上ることもあったりします。
実際、最近の若い人は忠臣蔵のことは知っている人の方がレアなようで、大学の授業で史実との違いを説明したくても学生がざっくりした話すら知らないので説明ができないと嘆いている教授のツイート(当時はまだTwitter)なども見かけました。

オワコンとは?
世間的に終わったコンテンツ(中身・内容など)を意味する表現。
旬が過ぎて話題性のなくなった人や情報、サービスなど、興味を引かなくなったものが対象になります。

史実との違い

史実との違いといえば、どうやら赤穂浪士四十七士が討ち入り前にそば屋に集まってそばを食べたという、いわゆる「討ち入りそば」も史実とは異なるようです。

絶賛愛用中の『蕎麦の事典』によると、

うちいりそば【討入蕎麦】

忠臣蔵の赤穂浪士大石良雄らが討入りの前に食べたと言われるそば。
元禄十五年(一七〇二)十二月十五日に吉良義央を討って首尾良く本懐をとげたが、その前夜、そば屋楠屋十兵衛またはうどん屋久兵衛の二階で勢揃いし、縁起を祝って手打ちそばやうどんを食べたという。これにちなんで十四日の義士祭にはそば供養を行うしきたりになっている。
しかし、そば屋に集まったというのは虚説で、集合場所は本所林町五丁目の堀部安兵衛宅、本所三ツ目横町の杉野十平次宅、本所二ツ目相生町三丁目の前原伊助・神崎与五郎宅の三ヶ所が正しい。両国矢ノ倉米沢町にある堀部弥兵衛宅で饗応を受けたあと、吉田忠左衛門、同沢右衛門、原惣右衛門ら六~七人はまだ時間が早いため、両国橋向川岸町の茶屋亀田屋に立ち寄り、そば切りなどを申しつけ、ゆるゆると休息した。そして八ツ時(午前二時)前に安兵衛宅へ集まった、と『寺坂信行筆記』にある。

『蕎麦の事典』(新島 繁):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部

江戸で人気だった作品ですので、そば好きの江戸の人たちが縁起担ぎのそばを作中に登場させ、亡き主君の無念を晴らさんと立ち上がる浪士たちの決起集会の場面を演出してグッと映えるシーンにしたんですね。

腹が減っては戦はできぬ。
とはいえ、これから討ち入りという場面、がっつり食べるような心境でもないでしょう。
寒い冬の最中、温かいそばをササッと少量(当時のそばは軽い腹塞ぎ程度の量であったことは以前の記事で触れていますよね)お腹に入れることで、少しは落ち着くことができたのかもしれません。

両方の視点があったら

今回、討ち入りそばの話を知りたくてネットサーフィンしていたのですが、確かに片手落ちな情報で演出に演出を重ねて美談にしすぎてる感じが素人ながらとても気になりました。
(とはいえ、吉良は被害者!赤穂浪士はテロリスト!と高らかに擁護するブログなどもあり、それはそれで違うなぁという感じ)
無駄に史実がベースになっているのが問題で、これが単なる物語として作られたのであれば楽しめるのかもしれません。

出向先のパワハラプロジェクトリーダーとキレやすいプロジェクトメンバーのこじれた喧嘩(ちょっ!!)みたいなのを無理矢理美談にしないで、せめて両サイドの目線で表現される部分があったり、時代背景的にいろいろ引っ込められない理由があって討ち入った、というのが理解できるストーリーならいいのになぁと思いました。

「討ち入りを実行しないと再就職も難しい」とか時代背景的に引っ込められなかった理由についてなど、「赤穂事件」としての正確な情報を踏まえた上で東大教授が解説している書籍の抜粋が面白かったので、気になる方はこちらもぜひ。

おまけ

2018年にサントリーコーヒー「ボス」の宇宙人ジョーンズシリーズCMでジョーンズが吉良家の奉公人になるというのがあったんですね~!
あれこれ調べたあとにこれ見つけたので、良い感じで和めました♪