食欲の秋

すっかり秋になりました。
幌加内町では9月初めの新そば祭りが終わるとそばの収穫が始まり、今は絶賛新そばの時期。「食欲の秋」です。

粋を良しとした江戸時代には、そばは粋な食文化の代表でした。
先日購入して読みかけている本の中で「食欲」的な観点から面白いな~と思った部分をご紹介します。

そばはおやつ

江戸の職人さんは、そばを食べるにもちょっと粋な言い方をしたようです。

「らはぁきたやまだぁ。なげぇもんでもたぐりにいくかぁ……」
江戸の職人衆の言葉です。これだけでは何のことかよく分からないので、翻訳すると、「ちょいと小腹が空いた。そばでも食べに行こうか……」という意味になります。
「らは」というのは「はら」で、つまり腹のこと。何でもひっくり返して言う、当時のしゃれ言葉です。「きたやま」は「北山」で、山の北側の道は常に日が射さず、いつも空いているという意味。また、一説には、山の北側は、天気の良い日には透いて見えるからだともいいますが、いずれにしても「すく」の意味であり、「らはぁきたやま」で、腹が空いた、つまり「空腹」という意味になります(後には、単に「きたやま」だけで空腹を意味するようになりました)。「なげぇもん」は「長い物」で、これは蕎麦のこと。「たぐりにいく」は「手繰りに行く」で、…(中略)

粋を食す 江戸の蕎麦文化 著:花房 孝典|株式会社天夢人

これってもしや…

一昔前のバブル期を揶揄するワードとしてたまに聞く「ザギンでシースー(銀座で寿司)」ってやつと同じノリじゃ…?;
少なくとも江戸時代の方は、当時「粋」な言い回しだったはずなので、この例で江戸の職人衆までちょっとイタい人みたいになっちゃうのは本望ではありませんが、少なくとも江戸(東京)あたりではこういう言葉遊びみたいな言い回しが流行る地域性があるのかもしれませんね。

小腹が空いたときに食べるそば、それ自体は特に江戸も今も違いが無いように思いますが…

江戸の町方では、蕎麦は、小腹の空いたときに間に合わせに食べる、いわばお八つ、腹塞ぎであり、蕎麦を三度の食事に代えるような輩は、江戸っ子の風上にも置けぬしみったれとして軽蔑されました。

粋を食す 江戸の蕎麦文化 著:花房 孝典|株式会社天夢人

なんと!しみったれとは!;
ひどい言われようです。

とはいえ今の感覚で考えて憤慨する前に、いったん当時の「お八つ」「腹塞ぎ」であったという背景を考慮して、現代で言えば何だろう…と考えてみました。

なんとなくそれだけで「食事」とするには厳しいけれど、ちょっと小腹が…というときの食べ物…う~ん。

カフェなどで飲み物と一緒にちょっとつまむ感じの軽食メニュー、スコーンとかドーナツ・ケーキ・パイ系のものとか、コンビニのレジ横の肉まんとかアメリカンドッグ、フランクフルトみたいなホットスナック系とか、旅の途中に店先で買って散策しつつ食べる系の温泉まんじゅうとかコロッケとか、おやきとか。

江戸時代の人はそばをこういった感じのものと同じようなイメージで捉えていたのではないかと考えると、確かにお昼休みにアメリカンドッグ5本も6本も山盛りにしてる人がいたら「えw」ってなるかも…という気もします。
粋を良しとする、悪く言えば「格好つけ」の江戸の人には恥ずかしいのかもなぁとなんとなく理解できる気がしてきました。

三口半か四口

小腹が空いたときに食べるものであるそばについて、かの有名な作品の中にも描写があるようです。

夏目漱石の『吾輩は猫である』の中で、美学者迷亭(めいてい)が、笊(ざる)蕎麦を食べながら、苦沙弥(くしゃみ)夫人に、「笊は大抵三口半か四口で食うんですね。それより手数をかけちゃ旨く食えませんよ」と講釈を言って聞かせる件(くだり)がありますが、江戸の面影を残すこの時代まで、蕎麦は、笊蕎麦に限らず、大体それくらいで食べられる量でした。

粋を食す 江戸の蕎麦文化 著:花房 孝典|株式会社天夢人

高級なおそば屋さんでそばの量がお上品だなぁと思うことがあったりしますが、江戸の頃のそば文化が残っているからだったのですね。

間食としてのそば

そもそもなぜ1食分として満たない量の食事が当たり前になっているのでしょうか。

このような感覚を理解するには、いわゆる江戸っ子の食事の形態を知る必要があります。
江戸の泰斗、三田村鳶魚は、当時の市井の人々の多くが肉体労働にたずさわっており、「不相当に身体を烈しく使うものだから、うんと食っては仕事ができない……一度の飲食の量が極めて少ないから、従って三度の決まった食事だけでは腹が減って耐えられぬ……元来が一人前ほどの食事をしていないので、ぜひ間食しなければならなかった。この間食のために、江戸のある食物類は大変進歩したのである」(『三田村鳶魚全集』第十巻 中央公論社刊)と述べています。(中略)
その進歩した「ある食物類」の代表こそが、まさに蕎麦だったのです。

粋を食す 江戸の蕎麦文化 著:花房 孝典|株式会社天夢人

【泰斗】(たいと)とは
「泰山北斗(たいざんほくと)」の略。「泰山」は古代中国で尊ばれた山、「北斗」は北斗七星のことで、天の中心となる存在。転じて、ある分野で最も高く評価され、尊敬される人のたとえ。
(オンライン辞書複数からまとめました)

【三田村鳶魚】(みたむら えんぎょ)とは
江戸文化・風俗の研究家である。本名は万次郎、後に玄龍。その多岐に渡る研究の業績から「江戸学」の祖とも呼ばれる。 
三田村鳶魚 – Wikipedia

メジャーリーガーの大谷翔平選手の食事が1日6~7食だという話をどこかで見たことがありますが、アスリートが食事回数を小分けにして5回などにするのは割とよくあることのようです。
おそらく江戸時代に肉体労働で身体を使っていた人たちも食事を小分けにすることでパフォーマンスを維持していたんだなというのは大いに理解ができます。

いわゆる間食、というよりは小分けにした1食にそばが重宝されていたということのようです。

馬方蕎麦

とはいえ、江戸の人はみんなお腹いっぱいそばを食べなかったのかというと、どうやらそうでもないらしく。

量が多く、一盛り、あるいは一椀で満腹するような蕎麦を、江戸っ子たちは「馬方蕎麦」と呼んで軽蔑していました。ところが、反骨精神旺盛な江戸っ子の中には、敢えて「馬方蕎麦」を看板に掲げ、大盛りを自慢に商いをした店もあり、それなりに繁盛していたのも面白いと思います。

粋を食す 江戸の蕎麦文化 著:花房 孝典|株式会社天夢人

現代では、江戸時代の商売のアイディアや工夫を参考にしようというビジネス本なども見かけるくらい江戸時代はかなり活発で斬新なアイディアが豊富な時代でした。
そんな時代なので、もちろん「馬方蕎麦」のようなニッチ?かもしれない需要に対応する店もあったのは想像に難くありません。

以前紹介した『蕎麦の事典』にはお店のことも書いてありました。

うまかたそば【馬方蕎麦】

江戸時代、四谷御門外にあったそば店・太田屋定五郎の俗称。四谷付近は近在から出てくる小荷駄馬でにぎわい、馬子たちが行き帰りに食べて店の名が広まった。挽きぐるみの黒っぽいそばだったが、よそのもりに比べて量が多かったので評判をとった。(中略)

『蕎麦の事典』(新島 繁):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部

なるほど!
大盛りが馬子さんたちに人気だったから「馬方蕎麦」と呼ばれるようになったんですね。

実は霧立亭にもある「馬方蕎麦」

一人前の量は江戸時代に比べて多い現代ですが、それでも通常の量では物足りないと思う方も少なくありません。

そんながっつり食べたいそば好きさんにも満足していただけるよう、当店では二人前の「大盛りそば」、三人前の「お鉢そば」、そして最大はなんと五人前の「ちぶおそば」までご提供しています。
「ちぶおそば」は、常連さんのお名前をいただいて爆誕したゆうに1kg超えの超大盛り!(茹でる前900g)
記事作成時(9/23)で2名が完食されています。

参考までに当店のそば量比較

茹でる前の重量茹でた後の重量
もりそば1人前180g270g
ちょいもりそば約1.5人前270g400g
大盛り蕎麦2人前360g540g
お鉢そば3人前540g800g
ちぶおそば5人前900g1,350g

食欲の秋、新そばモリモリ食べたい方はぜひお好みのサイズでご注文ください♪