8月はお盆、お墓参りなどでお寺に行く機会も多い時期ですね。
お寺の僧侶とそばはとても深いつながりがあるのをご存じでしょうか。
僧侶とそば
寺方そばとは、お寺で作られたそばのことです。
現代でも精進料理としてそばが振る舞われることも多いですが、昔もお寺でお客様や檀家さんをもてなす際にはそばやうどんなどが用いられることが多かったようです。
また、そばは修行に必要な食物でもあったようです。
有名な比叡山の回峰行や修験道の荒修行では、五穀に数えられないソバは行者の貴重な栄養源でもあった。もちろん修行中にそば切りをつくるわけではなく、そば粉を水で溶いてたべるのである。
『江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?』- 岩﨑信也 著(光文社)
とあるように、荒行をする修行僧が食べていたようです。
いわゆる「穀断ち」の中の「五穀断ち」といって一般的に主食とされる穀物5種(どの穀物が該当するのかはいろいろな説がある)にソバが含まれないためです。
(さらに上の「十穀断ち」になるとソバも含まれているので「十穀断ち」の場合は木の実や草の根のみを食べて人間の穢れから遠ざかるという荒行になるみたいです。ひぇぇ)
「○○庵」
現代でもおそば屋さんの屋号で「○○庵」とつくものは少なくないですが、この「○○庵」というのはお寺と密接に関係しています。
庵/菴(あん) とは? 意味・使い方
庵/菴(あん)とは? 意味・使い方をわかりやすく解説 – goo国語辞書
[名]
1 世捨て人や僧侶などの閑居する小さな草葺(くさぶ)きの家。草庵。いおり。「―を結ぶ」
2 大きな禅寺に付属している小さな僧房。
[接尾]
文人・茶人やそれらの人の住居、また料亭などの名に添えて、雅号・屋号として用いる。「芭蕉―」「好日―」
庵とは、つまりお寺の僧侶が寝泊まりする小さな宿舎のようなもの。
そば屋の名前に関して言えば、浅草にあった浄土宗の称往院境内にあった「道光庵」という小さな庵がその名前の由来となっています。
(中略)寺でありながらそば屋の番付に列せられ、しかも並み居る本職を押しのけて江戸随一と評判をとったのが浅草にあった道光庵だ。
『江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?』- 岩﨑信也 著(光文社)
(中略)道光庵は浅草にあった浄土宗の古刹・称往院の子院で、称往院境内にあった小さな庵である。享保二〇年(一七三五)刊の地誌『続江戸砂子温故名跡志』によると、庵主はそば打ちの名人で享保の頃はたっての所望があったときに例外として檀家などに供していた。寺方なので鰹節などの生臭のだしは使わず、辛み大根の搾り汁で食べさせた。辛み大根の搾り汁を添えるのは信州などの古くからのそばどころの食べ方である。
(中略)ところがいつ頃からのことか、そのそばのうまさの評判を聞きつけた檀家以外の人たちが盛んに押しかけるようになり、寛延頃にはすっかり「そば切り屋の様」になっていた。その後もそばの評判は高まるばかりで、安永六年(一七七七)刊の評判記『富貴地座位』の「江戸名物」の巻では、「伊勢屋」「福山蕎麦」「正直そば」といった当時の店名を尻目にそば屋の筆頭に挙げられている。
(中略)いまもそば屋には「何々庵」という屋号が少なくないが、もともとはこの道光庵の繁盛にあやかろうという命名だったらしい。
江戸の人気店を押しのけて、お寺の境内で振る舞っていたそばがランキング1位になっているのですから、それはあやかりたくもなるわけです。
とはいえ、そうなると問題が無いわけでもなかったようで、
そば屋まがいの繁盛を毎日目の当たりにしている親寺・称往院としては、いつまでも黙認しているわけにもいかなくなるのが道理というもの。再三にわたって注意したがいっこうに改まらず、天明六年(一七八六)正月、ついにそば禁断の石碑が門前に建てられた。
石碑に刻まれた文字は、不許蕎麦 地中製之而乱当院之清規故 入境内
院内でそばを打つことは当院の規則を乱す、それゆえ、そばが境内に入ることを許さず、という意味だ。
『江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?』- 岩﨑信也 著(光文社)
あらら、禁止されちゃいました;
「そば切り寺」という別名がついていたり、当時の川柳でも「茶屋のごとし、嘆息すべし」なんて書かれていたみたいですし、いろいろと示しがつかなかったのかもしれません。
割と柔軟な時代のように見受けられる江戸時代の出来事なので、いっそ振り切って「多角経営だ!」って言ってしまえそうな気もしなくもない…けど、そうもいかなかったんですね。
今年のお墓参りの帰りにおそばを食べる機会があれば、江戸時代にお寺で振る舞われる「寺方そば」ってどんなそばだったんだろうなぁなどと思いをはせていただくのも良いですね♪